以下の文章は、平成10年7月29日、すなわち経済企画庁長官就任の前日に、朝日新聞夕刊に掲載された、堺屋太一自身による『平成三十年』総括の文章である。残念ながらasahi.com上ではこの文章を読むことは出来ない。だが、『平成三十年』とは何だったのか、を理解する上で非常に重要な文章であり、かつまた、国務大臣として日本経済の再生を担う、我らが堺屋長官の事実認識を知る上でも貴重な文章であると思い、ここに引用するものである。
連載小説「平成三十年」を終えて
やはり「何もしない日本」か
堺屋 太一(作家)
未来の整合性に心砕く
何よりの強敵は「現実」
「平成三十年」という予測小説の構想を考え出したのは五年前、一九九三年の夏ごろだ。日本経済が「右肩上がり」から「俯き加減」に転じたことを、はっきりと認識したからだ。ここでの主題は、社会の少子高齢化と経済の停滞円安、そして政治行政の惰性である。
平成三十年(二〇一八年)は明治百五十一年、そして戦後七十四年目に当たる。実は明治七十四年が昭和十六年(一九四一年)、太平洋戦争開戦の年なのだ。
明治維新で日本は伝統的な武士の文化を捨て、文明開化でグローバル・スタンダードを採り入れた。この努力は報われた。五十年後には一端の近代国家となり、第一次世界大戦の戦勝国にもなり得た。
だが、これが「明治の日本」の頂点だった。そのあとは金融恐慌、関東大震災、昭和大不況と続き、太平洋戦争まで突っ走ってしまう。
戦後の日本も軍人文化を否定し、規格大量生産の近代工業社会の完成を目指した。その結果、四十五年後の一九九〇年には世界超一流の経済大国となり、冷戦の「戦勝国」になることができた。
しかし、「戦後の日本」もこの辺が頂点だったようだ。その後はバブル景気が弾け、金融機関が破綻し、阪神大震災も起こった。このころから日本式経営や学校教育も疑われ出した。
明治の日本は七十四年目に太平洋戦争に突入した。戦後の日本は戦後七十四年目の平成三十年にはどうなるだろうか。私が「平成三十年」にこだわった出発点である。
予測小説(近未来小説ともいう)は、『油断!』や『団塊の世代』で私がはじめた小説手法だが、実に手間がかかる。未来を整合性のある形で予測しておかなければならない。欧米でもこの手法を真似る作家が何人か現れたが、予測に整合性を欠くと全体が絵空事になってしまう。
「平成三十年」でも、二十年後の予測作業からはじめた。その基本は人口構造、超長期予測ではこれが一番確実だ。ただし、今後は外国人の移入が絡むだけに難しい。小説でもこれを大きなテーマにしている。
第二は経済、なかんずく物価と産業構造だ。残念ながら、製造業の衰退に伴う円安と物価高は避け難く思える。「平成三十年」連載中に、外国の新聞が再三これを取り上げたのも、日本経済の長期展望として注目したからである。
だが、何よりも難しいのは、未来の人間の暮らしとして描くことだ。この小説の主人公・木下和夫は団塊ジュニア、その父親は団塊の世代。昭和を代表する世代という意味で昭夫、和夫と名付けた。父の昭夫はバブル時代に支店長を務めた銀行員、自分と共に高齢化する東京近郊のマンション団地に住んでいる。大都市近郊団地の高齢化も話題の一つだ。
様々な準備作業を終えていても、新聞の連載小説にするのは難しい。毎日二十三字五十二行に書き分けて読者の興味をつなぐにはどうすればよいか。
物価の変動、技術や機器の進歩、人々の暮らしや自然環境の変化など一つ一つ書いていると何ヵ月もかかる。単行本ならともかく、新聞連載では読者の忍耐を越えるだろう。
そこであえて二つの枠組みを課した。一つは比較的早い時期に事件を予感させることだ。そのため、登場人物の名を戦国武将に因むことにした。織田信介、明智三郎、足川義明といえば、読者にもはじめから事件の予感を持って頂けるだろう。
もう一つは、掲載の日と小説の中の二十年後の日付を連動させたことだ。これは小説の進行が現実の季節感や年中行事と重なる利点があったと思う。ただ最後がせかせかとした終わり方になってしまったのは、私の見通しの悪さである。単行本として出版する際には、自ら課した枠に捉われないで、丁寧に仕上げたい。
しかし、何よりの強敵は「現実」だった。この小説を準備した頃には金融破綻や急激な円安などは予想もされていなかった。選挙の結果、新党が躍進するというのもありそうになかった。いずれも「二十年後の未来」にふさわしい設定だと思ったが小説連載中には似たようなことが実際に起きてしまった。
「それでも」とあえていいたい。目下の激動もやがて収まり、平成三十年にはこの小説に書いたような「何もしなかった日本」が存在するだろうと。この国の形と気持ちは、「敗戦」を見なければ、変わり難いというのが、予測の中央値である。
二十年先の「まだ見ぬ日本」を、この連載で感じて頂けたとすれば、大沼映夫氏の絵画の効果が大きかっただろう。時間的未来を感じさせる何重もの枠組みの中で、未来を見事にビジュアル化して頂いた大沼映夫氏に心から感謝したい。
ディープなビルガモ読者には、この文章だけで十分妙味を感じ取っていただけるのではないかと思う。私もこの文章を見て窒息かつ腹筋が吊りそうになった。というわけで、ここで私が補足しなければならない要素は何もないのだが、とはいえ、このまま「Back to 199X」と行ってしまっては、単に人の書いた文章を丸写ししただけ、という結果になってしまうので、やっぱりちょっと書いておく。
予測小説(近未来小説ともいう)は、『油断!』や『団塊の世代』で私がはじめた小説手法
それまでの「七十四年目」へのこだわりというのは、堺屋太一の「思い入れ」と言うか「思い込み」なわけで、例えば第一次大戦の戦勝国とか言ったって、あの時は9回裏から突然乱入して勝ちメンバーに割り込んだだけやんか、とか、太平洋戦争の突入にしても、それまでに綿々と続いていた中国との戦争状態の延長でしかないのではないか・・・とかツッコミどころはあるけれども、それはさておくこととする。
で・・・・・・だ。堺屋ちゃんはアーサー・C・クラークやジョージ・オーウェルや、果てはH・G・ウェルズよりも早くから小説を書き始めていたわけか。
欧米でもこの手法を真似る作家が何人か現れたが、予測に整合性を欠くと全体が絵空事になってしまう。
まさしく、Web上いたるところで『平成三十年』が妙に話題になっていたのは、まさしくこの「予測」が「整合性を欠」いていたために、「全体が絵空事」に見えたからなのだ。
堺屋ちゃんのこの物言いは、多くの「ノストラダムス解読本」の筆者の主張に近いものを感じる。私がはじめ、真似する人間も出てきたが私以外の作家の予測は絵空事・・・って。
第二は経済、なかんずく物価と産業構造だ。残念ながら、製造業の衰退に伴う円安と物価高は避け難く思える。「平成三十年」連載中に、外国の新聞が再三これを取り上げたのも、日本経済の長期展望として注目したからである。
ごっつい気になるのがこの段落。外国の新聞が再三取り上げた「これ」というのは、読みようによっては「製造業の衰退に伴う円安と物価高」とも、「平成三十年」そのものとも取れる。以前、AltaVistaで「+sakaiya +taichi」を検索したときには、「平成三十年」らしき話題のページは英語圏では引っ掛からなかったが。しかし「日本経済の長期展望として注目」・・・となると、やはり「平成三十年」の内容が外国の新聞で取り上げられたということなのか。今回、経済企画庁長官に就任するに当たり、複数の人からメールで「どうかアメリカ政府が『平成三十年』を読んでいませんように」という祈りに近い言葉を頂いている。
物価の変動、技術や機器の進歩、人々の暮らしや自然環境の変化など一つ一つ書いていると何ヵ月もかかる。単行本ならともかく、新聞連載では読者の忍耐を越えるだろう。
いやいや、一番読者の興味を引いたのは「技術や機器の進歩」であろう。今でもinfoseek Japanで「平成三十年」を検索すると、最初にヒットするのは右寄りのおじいちゃんが作っている絶賛ページ(ただし、平成9年7月以降更新が止まっている)だ。
私も別に専門家ではなく、少なくとも自動車業界の推移よりは、コンピュータとインターネットの技術情報の方が、どっちかと言えばある程度わかるレベル。その私が見て、この「進歩」はどう考えてもおかしいと思ったものだが。本当にここらへん、人々の暮らしあたりの部分において、準備段階で予測作業を行っていたのだろうか。
もう一つは、掲載の日と小説の中の二十年後の日付を連動させたことだ。
だからこの連載は、本来平成10年12月31日まで続かなければ不自然だろう。実際、連載当初のプレジデントの記事にも「1年半の予定」と明記されていた。大臣就任のオファーがあったから、という説もあったが、作品全体をマトメに入っていたのは、まだ橋本自民党が選挙で惨敗する前。参院選に自民党が負けることがなければ、堺屋ちゃん入閣も当然有り得なかったわけで(だって内閣が総辞職しないんだから)。単に打ち切りと見ているがどうか。不思議なことに最終章はasahi.comに保存されず、したがって私もまだ読んでないんだよう。
単行本として出版する際には、自ら課した枠に捉われないで、丁寧に仕上げたい。
そりゃリライトしたいだろうが、国務大臣の激務の内にあってはそれもままならないだろう。一方、朝日の営業サイドとしては、鳴り物入りで就任した経済企画庁長官が、その入閣直前まで書いていた経済予測小説として、一刻も早く出版したいに違いない(そうでなくても堺屋本は常にベストセラーだしな)。最終回読んでないせいもあり、ぜひとも『元祖 平成三十年』を一刻も早く出版していただきたいものだ。リライトは文庫化の際にこっそり行うという線でどうか。
と、相変わらず言いたいことを書いてきたが、「それでも」とあえていいたい。東京スポーツかFLASHあたりで「経済企画庁長官が書いた小説のすごい内容」って記事になるとか、民主党か公明あたりから国会でつっこまれるとか、慌てて単行本化したためにSF大会に間に合ってしまい、トンデモ本大賞に入選したりしてしまうかもしれないが、「それでも」とあえていいたい。大臣となった堺屋ちゃんは「何もしなかった日本」にしないために、間違いなく一石を投じてくれるだろうと。二十年後に訪れるだろう「敗戦」を明確に予期し、その危惧を訴えていたさなかの入閣なのである。戦前の日本とは違い、今は「敗戦」を食い止めるために行動することが許される時代だ。まして民間人である堺屋ちゃんは、選挙地盤も党内派閥も気にしなくていい。
だから私は堺屋ちゃんに大きく期待している。やがてリライトされる『平成三十年』は、だから薔薇色の未来を描いた小説になっているかもしれない。未来は変わるし、変えられるのだ。
CLUB BUILD-GAMOは、堺屋経済企画庁長官を応援します。いや、ホント。