×『誰が四人を殺したか』←クックロビンかっつーの
○『四人はなぜ死んだのか インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」』
前項「IT地球を征服す」を書いた時点では、既に現物が手元になかったので、うろ覚えで調べもせずに書いたのであるが、Who? ではなくてWhy? でしたね。横着はするものではない。
実はこの間違いに気がついたのは、アレを書いた翌日、偶然読んだいしいひさいちの『ほんの本棚』(創元ライブラリ)に、本書の評が載っていたからである。その結びは次の通りだった。
…まことにいちいちおっしゃる通り。しかし、急に叫びたくなってしまったのは私が昼寝ばかりしていたせいか?奇しくも私の当時の読後感にも共通する一文である。
「事件はインターネットで起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」失礼。
既に事件から3年が経過し、単行本の刊行からも2年が過ぎた。99年7月と言えば、私が自サイト「Club Build-Gamo」の更新に対する情熱を急速に失っていった時期であり、事実、本書から感じた、えもいわれぬ不快な思いについて、何かの形にしようと考えつつ、そのまま等閑になっていたのであった。今回、立花隆の素っ頓狂なインターネット観に出会って久しぶりに思い出し、いしいひさいちの的確な書評によって正しいタイトルを伝授されたことも一つの縁と思って、アマゾン・ドットコム(日本版)にあたったところ、今年(2001年)6月に文春から文庫化されているではないか。しかも後日談も書き下ろしで収録されているという。近所の本屋に走ったところ、比較的新しい作品であったため、まだ書架に並んでいた。早速購入して、書き下ろし部分を読んでみたのだが。
…なんじゃ? こりゃあ。
元々は前項の誤記を訂正するつもりだけだったのだが、再び苦の虫が騒ぎ始めてしまったのである。大人たちは、なぜ、こんなものを書かせてしまったのだろう?
第1章 毒入りカレー事件 犯人は他にもいるこのうち、「第4章」「あとがき」が、文庫化に際して追加された項目である。
第2章 現地取材 被害者にインタビューした
第3章 それは小さな疑問から始まった
第4章 そして事件から三年が経ち、私は……。
あとがき
付 録 シめショめ問題にハマる
解 説 渡辺淳一
買って読め、と言いたいが、一応未読の人のために本書の大筋を紹介すれば、「第1章」が文藝春秋読者賞を受賞した論文であり、カレー事件の被害者は行政(警察や保健所等)、病院、マスコミの過誤や不作為による業務上過失致死傷であるという内容を、インターネットや専門書を参照しながら指摘していくというものである。その安楽椅子探偵っぷりに、私も少なくない不快感を覚えた一人だが、何しろ作者は当時東京在住の中学生で、このレポートは元々夏休みの宿題である。仕方がないと言えないこともない。これを公の場に発表する意味と価値があったのかというのは、別の問題として残るが。
「第2章」は、現地の調査もせずこのようなことを申し上げるのは誠に忸怩たるものを感じる次第でありますが…と、『ゴジラ』の山根博士的心境に到った著者が、残された疑問を解決するために和歌山を訪れて作成されたレポートであるが、神津恭介や鯨統一郎が実際に邪馬台国候補地を訪れて何かハナシが進展するのか、といった感じで、何だか急速にトーンダウンしてしまう。林真須美容疑者が「毒婦」として初登場するが、動機なき真須美容疑者が、何故に一銭にもならない砒素カレー事件を起こしたのか、登場させるのならそこまで踏み込んでシャーロキアンっぷりを発揮して欲しかった気もするが、そこは大人の勝手な要望、ご本人にも興味は薄い様子である。
「第3章」はこのレポートを作成するに到った経緯、現地調査の印象、読者賞受賞にあたっての心境、そして著者及びその家族の個人的な紹介である。単行本化にあたり、本章を追加した理由を、著者は次のように述べている。
Eメールによる反響と同時に、マスコミ各社からの取材攻勢も始まりました。(中略)至極もっともな理由である。
「PARTT」の趣旨に沿って、事件を前向きに検証する方向であれば受けるが、単に十五歳の女子中学生である私への関心だけをテーマとする興味本位のものであれば、断ってしまおうというのが基本方針でした。
実際のところ事件の検証より、三好万季に興味の焦点を当てての取材依頼の方が多かったのですが、後者はほとんど断ってもらいました。(中略)
ただ、今回、十五歳の少女のレポートが『文藝春秋』に掲載されたということは、それ自体に話題性があるとされるのも、理解できない訳ではありません。私自身、掲載の決定に驚いていた訳ですから……。
単行本の発刊にあたって、この文章を書いた理由は、多くのマスコミが取材しようとした三好万季のプロフィールと、『文藝春秋』掲載の二つのレポートを書いた背景や裏話についても、私自身の手で公開しておいた方がいいのではないかと思ったからです。
では、文庫版で追加された「第4章」とは。事件発生から3年、単行本刊行から2年、心ならずも風化しつつある砒素カレー事件を追加取材して書かれたものか……と考えるのが人情であるが、実は違う。
本章は100%、「ミヨシマキは今…」なのだ。
今回、『四人はなぜ死んだのか』を文庫化するにあたって、私は、もともとの単行本のままでおくことには、少なからず抵抗がありました。単行本を刊行したときから約二年間の時の流れの中で、私の身を巡って生起した、結構ドラマティックな変化や近況、さらにアメリカの大学への進学を決めた私の現在の心境などを書き足したいという気持ちもありました。そこでこの「第4章」をあらためて書き下ろそうと考えたわけです。(太字は筆者)おいおい、この本は何時から『三好万季のどきどき☆ティーンエイジライフ』になったのだ?
そういうわけで、本章の主な内容は、あれから2年、
難病を患ったり
高校を中退したり
NHKで仕事をしたり
インターネットで留学先を検索したり
…を、主な登場人物
「ワタシ」
「ワタシのお父さん」
「ワタシのお兄ちゃん」
「ワタシの高校在学時代の担任だった山田先生」
「ワタシのお父さんの親友でシンガポール生まれホンコン在住の王さん」
で話が進んでいくのである。
えー…。あれから2年間、やっぱり「インターネットの達人少女」に対するマスコミ攻勢は引っ切り無しで、その取材を断り続けた関係で、その後のプライベートライフについて書いておいた方がいい、という判断なのであろうか? そうでなければ、この章のいったいどこが、『インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」』の続章なのであろうか?
ここでのNHKでの仕事というのが、ある意味で本章の道の踏み外し具合を象徴的に現している。ハイビジョンドラマ『菜の花の沖』に関連するドキュメンタリー番組で、タイトルは『北海の勇者 高田屋嘉兵衛』。平成13年1月2日に総合テレビで放映されたそうなのだが、誰か見た人はいませんかね。
私の役目は、高田屋嘉兵衛縁の地を訪ねて歩く舞台美術家、妹尾河童さんのために、このドキュメンタリーに盛り込む情報のリソースを調査する、スタッフ兼登場人物として関わることでした。調査も基本的にインターネットを使うことが条件であり、また旅先の河童さんとはEメールとインターネット・テレビ電話で交信するというのが決まりでした。では、ここで具体的にどういうことが行われていたのかというと…。
残念なことに、これは編集でカットされたのですが、例えば河童さんから、「さーちえんじんハヤブサ(http://www.8823.net)」か? 河童さんも端末持っているのなら、自分で調べんかい! とも思うが、少なくともNHKが、インターネット達人少女・三好万季をただのキワモノとしてしか扱っていないのは明らかだ(レベルは違うんだろうけれど、私も学生時代にNHK番組で出演兼製作のバイトをしたことがあるが、スタッフからは、ちゃんと「特撮8ミリオタク」というキワモノとして扱われた。なお、その時ディレクターに貸した『愛国戦隊 大日本』のビデオは、10年余り経った今でも返してもらっていない)。
「万季ちゃん、サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)から函館までの距離を調べて教えてください」
という注文が入ります。すると私は、これは地球上の二点の緯度と経度の数値を入れて、その間の距離を求める方程式をインターネット上で探すことと、主な都市の緯度、経度を調べられるサイトを探すことだと判断する訳です。検索エンジンに思い付くキー・ワードをいろいろと入れ、ヒットするサイトを調べていきます。このあてずっぽうの試行錯誤では、勘だけが頼りです。要は経験を積んで、慣れるしかありません。
「私への関心だけをテーマとする興味本位のもの」を拒絶していた頃の著者であれば、決して受けるはずのなかった仕事であろうが、時の流れは著者を15歳の普通の少女から、18歳の特別な少女へと変えていった。それが成長に繋がるものであれば喜ばしいことであるが、残念ながら結果は逆のようである。
著者をして勘と経験と慣れが大切だと語り、世のインターネット知識のない人達を驚かせたWeb検索について見てみよう。第1章でカレーライスが原因の食中毒に疑問を持った著者の行動は次の通りである。
日経新聞の記事を何度も読んだ私は、早速ハウス食品のホームページ(http://www.housefoods.co.jp/frame/jiten03.htm)にアクセスし、カレーに入っているスパイス類を調べてみた。三十三種類のスパイスを掲げた表があった。URLをいちいち手打ちするのも面倒なものですな。ともあれ、テンポよく次々と関連ページを発見していく様子は無駄なく表現できているだろう。ところが、これが第4章になると、著者が自身の留学先と心に決めたアメリカのハリソンバーグ高校のサイトを検索する同様の場面で、
これらのスパイスを、一つ一つ調べてみると、まずガーリック(にんにく)には殺菌効果、オールスパイスには、殺菌、抗菌や酸化防止作用が確認されていることが分かった(http://www2q.biglobe.ne.jp/~curry/spicebook2.html)。
続いて私は、いろいろな原因菌の特性を、片っ端から調べてみることにし、東京都立衛生研究所のホームページにアクセスしてみた(http://www.tokyo-eiken.go.jp/shokuhin/yobou./yobou.html)。
私は早速、ハリソンバーグ高校のウエブサイトを探すことにしました。YAHOO!アメリカで、Home>Education>K-12>Schools>High School>By Region>U.S.>Virginia>Complete Listと辿ってみましたが、リストアップされた八十二校の中には、なぜかハリソンバーグ高校は見つかりません。この編集のダルい映画のような描写は何だ? デビュー作に見られた構成力のうまさ、緻密さは、第4章に到ってどこかに霧消してしまったようなのだ。文藝春秋の編集者達が「誤字脱字が一字も無い」と驚いた正確さも気がついただけで…。
そこで「harrisonburg high school」で検索をかけてみたら、一発で同校のウエブ・サイトが出てきました。(http://www.harrisonburg.k12.va.us/hhs/)。(太字は筆者)
「平成十一年三月」(221ページ)→「平成十二年三月」よく見れば上の短い引用でも「ウエブサイト」と「ウエブ・サイト」とで、表記が統一していなかったりする。枝葉末節と言うなかれ、本書の付録である「シめショめ問題にハマる」では、辞書や日本語FEPによって「始めまして」と「初めまして」と、用字にゆらぎがあることをかなり厳しく糾弾しているのだ。さらに日本語として定着していると考えていいと思われるカタカナ言葉「コンプレックス」は、わざわざ「コンプレクス」。なんか外来語の表記に拘っているのかいないのか、著者の姿勢がよく判らない。
「情報量」(260ページ)→「情報料」
「内線」(264ページ)→「内戦」
「http://www.tele.com.np/~yoroz/」(266ページ)→?(サーバが見つからない)
以上の根拠によって、私は、(中略)人の命にかかわる各分野の専門家たちの複合過失によって拡大された社会的医療事故、すなわち「業務上過失致死傷」ではないかとの疑問を呈さざるをえない。(太字は著者自身)…「第1章 犯人は他にもいる」よりと、大人や専門家の不作為を断罪するところにあった。そのためには根拠を明示し、理詰めに論を展開しなければ何の説得力も持たなくなるのだが、第4章における日本の英語教育批判と、著者自身が安楽椅子上で考案した革命的英語独習法の有効性については、非常に残念、かつ嘆かわしいことに、著者の「思い付き、思い込み、思い上がり」のみで構成された暴論となっている。…多くの国語辞書や日本語入力ソフトなどに携わる人たちが、現実の活字文化の反映を怠り、かなり現実から遊離してしまっているのではないでしょうか。…「付録 シめショめ問題にハマる」より
著者はまず、紆余曲折あってアメリカの高校への留学を諦め、大検で資格を得た後に直接メリーランド大学へ入学しようと考える。ところが、日本人が英語圏の大学へ入学するためには、TOEFLという語学試験で一定以上の点数を取得しなければならない。訳あって高校の授業にほとんど出席できなかった著者は、独習で英語を勉強しなければならないのだが、
それにはまず、日本人のほとんどが中学一年から受けている文部科学省ブランドの英語教育の内容に、根本的な疑問を抱く必要がありました。その根拠として、著者は日本人のTOEFL平均点が、アジアで最下位、世界で146/160位であることを挙げる。だが、さらに加えて
テレビなどでネイティブでない外国人が、英語でインタビューに答えているのをよく見かけます。細かな文法の正誤はさておいて、あれほど堂々とインタビューに答えることができる人も、ほとんどは英語を学校で習っただけで、日本人のように学校以外に、例えば英会話学校などに授業料を払った訳ではないでしょう。英語でインタビューに応じるネイティブでない外国人を、よく見かけるかどうかはともかくとしても、そんな彼らが「英語を学校で習っただけ」だというのは、著者の想像でしかない。
ところが日本人は、中学、高校、大学と、何年間も掛けて文部科学省ブランドの英語を勉強しているのに、これが身に付かないのは何故でしょうか。
皮肉なことに日本の英語教育産業は、世界に冠たるものがあります。続いて「駅前留学」等の英会話学校に論を移す著者であるが、もちろん、何がどう「世界に冠たるもの」であるのかについては、著者の印象以外には何も示されない。もっとも、外国人は「英会話学校などに授業料を払った訳ではない」と思い込んでいる著者であるから、日本の英語教育産業が世界随一というのは、著者の想像上の前提からは当然の帰結であるのかもしれない。
週刊誌を見る度に、老若男女を問わず、肉体的コンプレクスをターゲットにした広告の圧倒的占有率に驚かされます。わが国のコンプレクス産業は、平成不況をものとのしていないかのようです。でも、これらの広告が一向に減らないということは、これらの薦める商品やサービスの使用前と使用後の間には、何の変化も生まれないことの証明ではないでしょうか。広告が減らないことが効果のない証明だという理屈は物凄い。水虫の治療薬の広告が減らないことは、水虫に効き目がないことの証明か? そこから突然教育産業へと飛躍するのも常識を超越している。無論、こうした広告を鵜呑みにしてはいけないことは事実だろうが、いずれにしても、著者はここでも根拠らしい根拠を何も示さないままに、
同様に日本人の英語コンプレクスも、こうした産業のカモネギになっている観があります。全国紙には、ただ聴き流すだけで、英語の成績が急上昇したという、俄には信じ難い全ページ広告が、ひっきりなしに掲載されています。宣伝文句が事実なら、日本人の英語の水準は、すでにシンガポール並みになっていてもおかしくないでしょう。
このように、文部科学省ブランドの英語教育や、これを補完する商業主義的英語教育産業で、英語の力が付くとは考えられませんし、英語コンプレクスをより深刻にすることは、既に実証されています。何時の間にか「実証」までしてしまっているのである。
まるで、知らない間に「最底人」に敗北を喫してしまったいしいひさいちの「地底人」のように、コテンパンにやっつけられてしまった「文部科学省ブランドの英語教育」であるが、それでは著者はどのような対案を提示するのか。多くのミステリが「入り口から間違えてしまう」ように、著者も安楽椅子を揺らしながら、語学教育の有るべき姿の再構築に挑むのである。出発点は「日本語」である。
「どのようにして、日本語が身に付いたか」つまり、日本語は聴くところから始めて完全に習得できたのに、英語は教科書を中心に読み書き先行で、しかも聴く、話すまで同時に習得させようとするから身に付かないのだ、と考えるわけである。まあ、理屈ではある。
(中略)
私たちは生後間もなく日本語を、教科書で習ったのではありません。周りの大人たちが日本語をしゃべっている環境に、「おぎゃあ」と生まれ出ただけのことです。ところが私たちの英語の初体験には、決まってまず教科書があります。
そこで著者の考案した革命的英語習得法とはいかなるものなのか。
私が文部科学大臣だったら、中学三年間の英語の時間は、全て映画鑑賞の時間にしてしまいます。もちろん英語の映画です。日本語の吹き替えも、日本語の字幕も、英語の字幕も、全て活用します。「映会話」(!)を聴くのです。そして、徹底的に「聴く耳」をつくります。その上で、「話す力」「読む力」「書く力」を付けるのは、高校で本格的にやればいいのです。著者がこの方法でTOEFLの基準点をクリアしたのであろうことは、文脈から読み取れないこともない(実際にいつ、何点取ったのかは、どこにも書かれていないので判らないが)。故にかなり自信はあるのであろう。何しろ、続けて書いていることがこんなに勇ましいのだ。
このようにすれば、全ての中学卒業生がTOEIC(トーイック、http://www.toeic.or.jp/)のリスニング・パートで三〇〇ポイント以上、そして全ての高校卒業生が、ライティング・パートを合わせたTOEICの総合で、楽々六〇〇ポイント以上を取れるに違いありません。「全て」である。「楽々」である。「違いありません」なのである。さらに興奮冷め遣らぬ著者は、
文部科学省の学習指導要領の代わりに、私が言う「耳たこ英語術」を採用するなら、日本の全ての高校卒業生が、英語圏の大学に留学できる(するかどうかは別として)英語力を、それも楽しみながら身に付けることになります。またもや「全て」である。断言である。これはもう、今すぐにでも現行の学習指導要領を焼き捨てなければなりませんな。
中学三年間の英語を全て映画鑑賞にするなどというのは、すでに英語教育の改革の域を超えて、「革命」です。そういう意味では、私が編み出した英語の独習術は、革命的英語術であると言えないこともないでしょう。「革命」ですから革命的と言えないこともないでしょう。なんか無邪気な論証で良いですな。「赤い」のだから「赤っぽい」と言えないこともないでしょう。「3」だから「およそ3」だと言えないこともないでしょう。しつこいか。革命部分に「暴挙」と入れてはいけないとは言えないこともないと思うが。まあいいや。聴くだけで語彙や文法はどうするの? そんな疑問にも、著者の灰色の脳細胞は的確な答えを用意してくれている。
「ボキャ貧」対策は、一向(ひたすら)覚えるしかありません。しかしこれも、やり方次第です。ボキャブラリーをどうして増やすかで、英語嫌いにならなくてすむのです。(太字は筆者)え? それだけ?
<英文法が難しいのではない。文法書が難しいのだ。パソコンは易しいけどマニュアルは難しい。あれと一緒だ。平易な日本語で分かり易く書いた文法書が、きっとあるはずだ>はい?
徹底して「学ぶ側」の立場に立った、痒い所に手の届く文法書を選ぶことこそ、英語上達の鍵を握っているのです。(太字は筆者)
これで「全ての」○○卒業生が「○○○ポイント以上」断言、では、それこそ怪しげな商業的英語産業業者の宣伝文句と何ら変わらない。「全て」と言いきっている以上、より悪質かもしれない。この部分での興奮しきった語調は、日本の教育の未来に提言する若者というより、カルト宗教の教祖にさえ見える。とりあえず著者には、少し落ち着けと言いたい。
既に論理破綻を来しているのは明らかだと思うが、さらに付け加えるならば、この「耳たこ英語術」を有効たらしめる前提条件は、英語が少しは判ることであり、誰もが一から勉強することを前提としている学校教育には不向きだ。何故か? 私も実証する手段を持たないので想像だけで言うが、この方法で全く知識のない、文字の種類さえ知らない外国語、例えばロシア語や韓国語を習得できるだろうか? 我々日本人が生まれて初めて接した日本語は、母親が手にしたリンゴの果実についてかもしれないが、少なくとも黒澤明の『七人の侍』ではない。
ミステリ好きの著者らしく、彼女自身がどうしてこの方法で英語を独習することを選択し、またそれが有効であると思い込んでしまったことのヒントは、書いた本人は気がついていないらしいが、ちゃんとこの本の中に隠されている。
著者は
ハリウッド発の映画を、まるで食事の一部のように吸収しており、しかも
どちらかと言えばリスニングは得意でしたが、文法はからきし弱かったのだ。
要するに彼女は、自分の好きな方法で、自分の苦手分野を克服したに過ぎない。それを自分で見つけ出し、結果を出したことは称賛に値するかもしれないが、万人に通ずる革命的英語術であるなどとは到底言えない。だが著者は、この「革命的英語術」の何たるかを披瀝した『IT「超」活用 耳たこ英語術』と題する本を、現在執筆中だという。
産業システムが、急速にSOHO(スモール・オフィス/ホーム・オフィス)による独立起業家のネットワークに置き換えられようとしているように、教育システムも、いずれSSHS(スモール・スクール/ホーム・スクール)による独習者のネットワークへと、変貌を遂げていくに違いありません。…「第4章」より著者はこのように、様々なことをさしたる根拠もなく思い込み、断言し、不作為は日本を死なせるとまで言い切る。前項で取り上げた『立花隆先生、かなりヘンですよ』における、立花隆の言行を思い起こさせて不気味だが、こちらはまだ社会経験のない18歳である。今や教育の世界には、教える側と教わる側、「学校や先生という生産者」vs.「生徒という消費者」、というような関係ではなくて、そう、トフラーの言う第三の波、「プロシューマ」が簇生してくる時代が、訪れていると思うのです。そんな学び合いの空間の苗床となるインフラを実現したい。それが、私が通信インフラにこだわる最大の理由です。そしてそうしないと、日本はもう確実に死んでいく……と確信しています。…「あとがき」より
確かに18歳といえば、オトナ社会に対して何がしか異議申立てをしたい年頃であろうし、また著者は同世代の中では知識も広く考え方も大人びているように見える。だが、例え乳幼児の砌から日本酒を哺乳ビンで飲まされるほど早くから大人扱いされていたとしても、まだ人格形成途上の子供である。ホームページを見れば、好きな俳優に「ゲイリー・オールドマン」や「マイケル・ペリン」を挙げるイカしたお嬢さんである。そんな彼女が、まるで山深い草庵で三国鼎立の策を練る老練の軍師のように、頭の中だけで日本社会を動かせると思い込むようになってしまったのは、いったい何故なのか。
本書の解説には、週刊現代に掲載された渡辺淳一の文章が転載されている。そのタイトルは「十五歳少女の論文」である。内容の要約個所や、青酸カリは純白のパウダーだとかいう意図不明個所を除いた部分から読み取れるのは、「15歳の少女がインターネットを使って自分で色々と調べて、全く誤字脱字もなくこんな論文にまとめたのはすごい」ということだけである。第3章では読者賞の授賞式における、文藝春秋の編集長及び社長の発言が引かれているが、
「読み終えて興奮し、次の日三人のデスクに読ませたのですが、みんなが異口同音に、これは面白いけど、ほんとに本人が書いたのだろうか、ということになりました。…編集長の発言いずれも著者が「15歳の女子中学生」であることにしか触れていないかのようなのである。「今日私は、楽しみにして参ったんです。ああいう素晴らしい文章を書いた中学生って、どんな方かと思って。そしたら、とてもかわいらしくて……。こんなかわいらしい方が、あんなに素晴らしい文章をお書きになるのですから、日本の前途は明るいなと、…社長の発言
暴言の謗りを承知でいえば、マスコミも、文藝春秋も、そして読者の多くも、著者の緻密な論文の内容ではなく、「15歳の女子中学生とインターネット」という属性にしか興味はなかったのではないか。
何しろ本作の表紙は単行本も文庫版も、三好万季の肖像とパソコンをあしらった、可愛らしいイラストである。
また、カレー事件当初の治療の実態調査を、約束に反して厚生省が公表はおろか実施もしていなかったことについて、著者が各マスコミに指摘し追及を依頼したにも関わらず全く無視しながら、先に書いた訳のわからん番組に著者を使ったということからも類推できよう。NHKは、「カレー事件の真相を追究したレポートを書いたインターネット達人少女・三好万季」に興味はあっても、「カレー事件の真相そのもの」には何の興味もないのだ(著者がNHKにも追跡依頼をした、という前提だが)。
著者の属性を動機として読まれる本は、決して読者から批判されない。モーニング娘。の著作を購入したモーニング娘。のファンは、例えその本が全ページ白紙であったとしても決して批判はしないだろうし、批判するような読者は、そもそもそんな本は買わないし読まない。著者もそれを望んでいるのなら、供給者と消費者との幸福な関係はそこで完結する。しかし、この著者は、望みもしないそこ−−自分の作品が内容ではなく、「私」という属性によって読まれていることに気がついてしまったのではないかと思うのだ。
一方で著者は「第3章」(単行本における最終章)の最後を、こんな一文で締めている。
<人の運命は、ある日突然変わります>これは若気が至った凡庸なセンテンスなどではない。「第4章」の中で、著者の父が著者に対して、自由な生き方について語る場面がある。父親は、自分の命とは、恩の大海からの借金を返し続けるために神様から預かっているのに過ぎないとした上で
結局『自由』な生き方イコール借金返済の人生であり、一言で言えば報恩の人生だ。無限の恩の大海に生かされて在る己の命をどう使うか。『使命』すなわちミッションというのは『使命』(命を使ふ)こと。生かされて在る命の使い方。どう使うか、使い方はそれこそ『自由』だ。ただし、無限の恩の大海からの借金を返していくために使う−−これだけは、外してはいかん」「運命」と「使命」…言葉は微妙に違いはするものの、パブリックな言論の世界にデビューした著者は、そこに天から預けられた自らの命の使うべき方向性を感じ取ってしまったのだ。
鳴り物入りで喧伝されている次世代携帯電話が、どのような影響を次世代に与えるかを、私たちは今年(平成十三年)の成人の日の情けない光景の中に見ているはずです。揚げ句の果てには、使い過ぎた通信料、情報量を支払うのに、援助交際の稼ぎをもってすることに何の抵抗も感じない次世代を大量生産してもいます。各地で成人式が荒れたことと「次世代携帯電話」とは何の関係もない。まして援助交際が、携帯電話の通信料と情報料を支払うために行われているというのも、本書で顕著となった著者の思い込みによるミスリードでしかない。高校を中退せざるをえなかったという不幸な事象は、同時に著者を社会から隔絶してしまったのだろうか。現実の同世代社会から閉ざされた、その明晰で発想力に富んだ頭脳は、彼女の自意識を原理主義的に先鋭化させてしまったのかもしれない。
インターネット達人少女という特殊な存在として見られ続けることの憂鬱と過剰な自意識。その狭間で、現中高生世代のオピニオンリーダーとして、閉塞状況にある日本を再生するため、誤まれる同世代を善導し、解放する「エクソダス」を敢行せねばならない、という自負に埋没しつつあるようにしか見えないのだ。例えば、「あとがき」にあるこんな一文から。
『中央公論』平成十一年九月号に、「全中高生に無料でパソコンを!」という論文(筆者注:本文にはここにURLが記載されているが、現在はデッドリンクのため省略)を書いた私ですが、結果的に多くの中高生を、テレホ・タイム族という深夜族に追いやったのではないかと、内心忸怩たるものがあります。有り得ない。この論文自体は読んでいないが、中央公論という硬派雑誌に掲載された論文を、それほど多くの中高生が読んでいるなど、常識的には考えられない話である。また、件の「第4章」の本文中には、香菜の砒素汚染水に対する効果を実験するために、亜砒酸を入手しようとして断られ、「釈然としない」と憤る場面がある。当時著者は高校1年生、メーカーも代理店も販売を拒否するのは当たり前の話であるが、ここにも著者の、ある種社会の常識からはかけ離れた、どうしようもなく一直線な生真面目さが読み取れるのだ。
自分で自分を無自覚に追いつめ、そのことによって狭められた視野にも気づかない。さらには、自らのミッションを決定付けたインターネット達人「少女」という属性は、時間の経過と共に確実に失われてゆく。焦った挙げ句に性急な暴論に到ったのが、「第4章」執筆の経緯なのではないかと思われるのだがどうだろうか(また、その暴論の中心が「英語」と「IT」…「国際化」と「情報化」というところが、あまりにも象徴的ではある)。本来はそこで周りの大人がブレーキを掛けなければならないのだが、「三好万季の過激な断罪」、ズケズケ言う方が面白いに決まっているので、文藝春秋にとってショーバイ的に全然OK、しかも三好万季ファンの読者から批判が来るわけもない。
三好家のモットーは「自由と自律と自主と自発と自前」だそうである。今、これに加えて著者に必要なのは、自省であり自重であり自覚ではないか。勢いに任せて猛進するのも決して悪いことではないが、立ち止まって自分を見つめ直すことも大切ではないかと思う。18歳という年齢は、そういうことに気づくのにもちょうどいい年齢であろう。何も今から生き急ぐことはない。
『IT「超」活用 耳たこ英語術』…鋭意執筆中だというが、今のままではハヤリの言葉で言えば「トンデモ」だ。それはそれで読んでみたい気もするが。大人に使い捨てられないために、そして与えられたミッションを的確に果たすためにも、この著者にはインターミッションを取って現実社会、リアルスペースに復帰することを提言したい。