はぐれ武道 非主流派
平成九年六月弐拾九日 於:大阪市立阿倍野スポーツセンター
第三回 古武道大会 偏見レポート
例えば雁屋哲原作・池上遼一作画の劇画なんかに、怪しくも便利に登場するのが、「ナントカ流体術」ってな名前で登場する古武道である。だいたいが謎に包まれた一子相伝、メジャーどころの柔道や空手などでは、余りに危険なために禁じ手となっている技が残っていたり・・・というような、聞くだけでドキドキするイメージを持つのが、古武道という言葉だ。
そんな古武道の流派が一堂に会して技を競い合うという「古武道大会」、そうなると、どこかもう「地下プロレス」の香りすら漂うが、『ぴあ』に告知され、しかも入場無料、大阪府と大阪市が後援するという、大変安心な大会だったのだ。
ここでは、本大会のために全国各地から集まった13流派の演武の内、特に苦かったものを紹介しよう。
二刀神影流鎖鎌術[にとうしんかげりゅうくさりがまじゅつ]
いしいひさいちの『忍者無芸帖』に、御前試合ネタがあった。勝者には若君の剣術指南役を任ぜられるという設定で、困ったことに「鎖鎌」の奴が優勝してしまい、オチのコマで若君がブンブン分銅を振り回している後ろで、殿が頭を抱えている、というものである。
実際、「もしも日本刀より鎖鎌の方がメジャーだったら?」と、ドリフのように想像すると、江戸時代もかなり変である。「一つ、人の世生き血をすすり・・・」と、鎌振り回している高橋英樹というのは、かなりキているだろう。忠臣蔵、江戸城松の廊下で、鎌振りかざして吉良に襲い掛かる浅野の殿様というのも、確かに乱心として説得力のある構図ではある。筆者が想像して、一番イヤなのは佐々木小次郎だ。「物干し竿」と名付けられた大カマ振るう小次郎、トビー・フーパーの『悪魔の沼』だぞ、まるで。
とは言ったものの、実際に「鎖鎌」というものがある以上、これを極めようという人がいるのは自然であろう。
二刀神影流鎖鎌術は、当日のパンフレットによれば、
「当流は、宮本武蔵玄信から二天一流を継いだ寺尾求馬助信行の弟子、新免弁助が開いた。二刀神影流より発したもので、流祖は二刀神影流の達人だったと口伝されている。」
和菓子の能書き並みに訳のわからん文章である。「新免弁助が開いた」の後の「。」は間違いであろう。注意深く読むと、ここに3つの内容が読み取れる。すなわち、
じゃあ、いったい鎖鎌はいつ? というところだが、結局はこういうことらしい。
「四代目は大正初年、香川県の中尾市郎が継ぎ、その会得していた竹内流認可目録及び北辰一刀流免許状より、それぞれの長所を加え完全なる『二刀神影流鎖鎌術』として伝えたものである」
大正初年だぞ。講道館柔道より新しいやんけ。モボとモガが闊歩し、普選運動に代表される大正デモクラシー華やかなりし頃、四国の片隅で黙々と鎖鎌振り回しているおじさんがいたわけだ。それはそれで恐い。
さて、本流は「二刀流」である。時代劇なんかで鎖鎌使いが出てくると、大抵両手を使っているはずだ。片手で鎌を持ち、もう片手で鎖を回して相手の刀を絡め取り、引き寄せて鎌で一撃、というのが最もオーソドックスな使い方か。だから、普通鎖は、鎌の「柄」の方についている。だが、二刀神影流の鎖鎌は、二刀流であるが故に、鎖は鎌の「頭」についている。これは、どういうことになるかというと・・・。
演武が始まる。右手に鎖鎌、左手には普通の鎌。右手の鎖を頭上でブンブン回す。が、左手は塞がっているので、他にすることがない。時々身体の左右に振ったりするが、とにかく回している。ひたすら回している。いつもより多く回している。
「・・・・・・ひょっとして、これ、このまま終わるんとちゃうか?」
という不安は的中。「えへ〜い」という、力の抜ける怒声とともに、分銅が床に転がってどっとはらい。
さらに苦いのが、次に始まった「型」。仏頂面した親父が大真面目に二本の鎌を手に
ポーズ→きをつけ→ポーズ→きをつけ→ポーズ→・・・・・・
何が可笑しいって、技のつなぎが全然ないのだ。この辺から、同行の連中と共に笑いが押さえられなくなる。真剣にやってるだろうに失礼だが、その真剣さがおかしみを増幅させるから質が悪い。
だが、約束組手に至って、笑いは他の見学者にも伝播した。刀と鎖鎌の戦いなのだが、例によってお父さんは鎖を振り回しているだけ。刀担当の弟子は、間合いを詰める努力を少しも見せず、しかも本来なら刀を絡め取るべき鎖が、弟子の頭を直撃。
「ポコン」
という気のない音。痛がる弟子。場内に失笑のさざなみ。鎖鎌が「非主流」で良かったと、改めて実感した日曜日の午後であった。
為我流派勝新流柔術[いがりゅうはかつしんりゅうじゅうじゅつ]
よくTVなんかで、体術系の古武道の人が、護身術としての技を紹介したりしている。「痴漢撃退法」といった、アレだ。柔よく剛を制すの言葉どおり、柔術の基本は相手の力を受けて、流し、利用するという理解は、素人の私とはいえ、さほど間違った解釈ではないだろうと思う。
『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』の中に、「バナナを持った暴漢から身を守る方法」というコントがある。東洋流護身術講座をパロった内容で、バナナを振りかざした暴漢に対して、いかに対処するかと散々に能書きを並べた挙げ句、実演してみると、ピストルで射殺するだけ、というオチだ。
柔術、体術の約束組手の多くも、刀や短剣を持って襲ってくる敵を受け流して倒す、という設定のものがいくつもあり、いい加減退屈しつつ、上のコントを思い出して、「これ、刀持った方が勝つ、という設定やったらおもろいやろな」などと、余計なことを考えはじめた日曜日の午後であった。
勝新流。目隠ししてやるとか・・・などと考えていた流派だが、ここは凶悪だ。
パンフレットによれば、
「当身技、蹴、逆技をもって、我が身を守る技なり」
果たして組手。背後から襲い掛かる暴漢。その手を払い除ける。いつものパターンかと思いきや、払い除けた手が取られる。全ての抵抗がガードされ、襲われた方はついに床に組み伏せられ、「負け」を意味して床をタップするが、その後も二手・三手と暴漢の攻撃は続く。
そう、「背後から不意に襲いかかった方が勝つ」のだ。説得力はある。現実的でもある、しかし、そこに何の教訓が!?
二人並んで手を繋いで歩いている(男同士やぞ)ところを、いきなり一方が襲い掛かってそのまま勝つ。対面して正座しているところで、やはりいきなり襲い掛かってそのまま勝つ。何の意味があるのか、腰から脇腹、そして胸へと手の平を怪しく這わせる動作まである。同行の一人が思わず・・・
「これ、痴漢術とちゃうん?」
さすがは勝新。「攻撃は最大の防禦」を如実に表している流派であった。